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脳卒中コラム♯2 失語があってもディズニーは別腹

  • 執筆者の写真: 自費リハ 塚本
    自費リハ 塚本
  • 3月31日
  • 読了時間: 4分

今回の主役は知穂さん。冒頭の受け答えから、エネルギーに満ち溢れているのが大変印象的でした。明るい声と表情とは対照的に、発症当時のご様子は壮絶の一言でした。このコラムは、インタビュー動画を編集したものになりますので、詳しくは本編動画をぜひご覧ください。



発症したのは35歳の時、20年前の7/31。

厳密に言えば、倒れていたのを発見されたのが7/30。丸一日の間、脳出血が起きたままで横たわっていたことになる。当時の状況は、「闘病記録」からうかがい知ることができる。


ご両親が書かれた闘病記録
ご両親が書かれた闘病記録


太ももまである金属製の装具を右足につけ立つ、歩くことから始まったリハビリは、日を追うごとに回復の兆しを見せた。大きかった装具はコンパクトになっていき、膝下のサイズのもの、プラスチック製の軽いもの、そして足首レベルの小ささのものに次第に変わっていった。

当時のご自身を今と比べ、「凄いよくなったよね」と。


知穂さんには、身体の麻痺だけでなくもう一つの壁があった。

右の麻痺を患った方には、言葉が話しにくくなる/言葉を理解しずらいと言った「失語症」と呼ばれる言語の障がいがあらわれることが珍しくない。知穂さんも例外ではなかった。

「人が喋っているのは分かったけど、話すことは全然できなかった」

麻痺になると、リハビリの対象は身体機能だけでなく言葉にも及ぶ。心の中では分かっていても、思いを口にすることができない。そんなもどかしい状況が続いても、リハビリをやめることは決してなかったと知穂さんは語る。

発症から足掛け6〜7年の言語のリハビリを継続した知穂さんは、ある日、言語の先生から8割くらいの言語能力に回復したと告げられた。知穂さんには手応えがない訳ではなかった。回復状況について家族に話すのはとても自然なこと。しかし、返ってきた言葉に知穂さんは愕然とする。

「お母さんと弟に80%回復したよと言ってみたら、2人からは5割くらいって笑」

そう話す知穂さんの表情には、暗さが全くない。


ところで、気丈に話される知穂さんだが、麻痺は決して軽くない。その道のプロフェッショナルなら、あるいは一般の方でも一目見て麻痺の程度を感じ取ることができるだろう。

それでも、こちらまで明るくなってしまうようなエネルギーは、一体どこから生まれているのか。思いがけず、質問をぶつける。

 -知穂さんのエネルギーの源は?どこから来るんですか?-

「自分に負けないってことかな。あれなんだっけ、Twitterでもなくて、、、あっ!Instagramにもそう書いてある」

このコラム内では書ききれない、書くことは憚られる、ある大変さが知穂さんの家庭には存在していた。それは、知穂さんが「脳卒中」になってしまった以外の部分である。そんな背景の中でも、知穂さんがここまでやってこられたのは、知穂さんの人生マインド故であることが即座に理解できた。

「電話するのにも、要件を事前に書いておいて。でもディズニーには私が電話するんだけどね笑」

インタビューでは収めきれなかったが、病院の予約などは今もお母さんにお願いする一幕があるというが、ディズニーだけは別腹のようだ笑。

「発症してからも6回くらいディズニーには行ったかな。」

夢の国には夜行バスで向かう。車内は夜間消灯、トイレは揺れながらの車内を移動しなければならない。実は怖がりな一面を持つ知穂さんではあるが、この時ばかりはへっちゃらなんだとか。好きこそものの上手なれを地で行く、それが知穂さん。


介護保険に限った話ではなく、対象者がリハビリをする際、リハビリをする目的とリハビリの先の目標が存在する。しかし、生活期ではリハビリ期間が長期にわたり、リハビリを何年も重ねて行く中でリハビリを行う本来の「目的と目標」が見えにくくなってしまうことも、決して珍しいことではないであろう。

知穂さんはブレない。一生に一度の人生、ご病気をされる前から愛していた存在を、今も追いかけ続けている。その目的と目標を達成させるために、リハビリを日々行われているのだ。健常者でも嫌気がさしてしまう歩行も、50分以上は裕に出来てしまう。この能力があってこそ、一人ディズニーも楽しむことができる。そして、知穂さんが歩まれてきた人生の背景から、家族の存在・尊さを垣間見た。


〜一度きりの人生! 好きなことを続ける〜

そう語る知穂さんのお顔は、やはり明るい。



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